海外協力

僕の行っている大学には猫がいる
野良猫なのだがずっと同じ猫を見るから
どうやら大学に住み付いているようだ
そんな猫達をまさに猫っかわいがりして
餌をやる馬鹿学生達がいる
猫はいつでも何でも
食堂や談話室の周りをうろうろする
うっとおしいぐらい人に慣れ
すぐに人の膝に乗ろうとしたりする
春になると発情期がやってきて
子猫がやたらと増え
学内はまさに猫だらけへとなっていく
学生は子猫がさらにかわいいらしく
さらにかわいがり餌ももっとやる

しかし、夏休みの集中講義へ出ているときの昼休みのこと
僕はやせ衰えた猫達を目にすることになる
猫達は談話室のガラス越しに集まり
悲しい目をしながら
僕に「にゃーにゃー」鳴きかける
そう、夏休みになると急に学生は来なくなり
猫達はほったらかし
餌を取る術を知らない猫達は飢えてやせ衰えてしまったのである

こんな猫に誰がした・・・

ある猫は飢え死に
ある猫は旅立っていく
しかし、こんな甘っちょろい世界で育った猫が
外の世界で競争に勝てるわけもなく
たぶん死んでいくだけだろう

それでも学生たちはひとときの自己満足のために
駄目な猫を生産しつづける
飼ってやる気も
餌を与えつづける気もさらさらないのに

そしてある日
日本の海外協力なんかもこれに似た側面があるよなぁ
などと思ってしまった

分かり易い例をひとつあげてみよう
例えば学校
はたして学校の校舎にはきれいな大きい建物が必要なのか?
日本も寺子屋や青空教室などの時代もあったわけで
きちっとした先生さえいれば
立派な建物なんぞはいらないのではないだろうか?
しかも他の国のひとに立ててもらった建物などいるのだろうか?
学校はやはり
子供たちのおとうちゃん、おかあちゃんが作るべきなのである
自分たちで作るべきものを日本に作ってもらってしまい
まさに与えられたものを使うだけの人間になりつつある人たち
子供に何もしてやれない親
何でも与えてくれる日本人
そんな構図を作ってしまっては
親の尊厳というものはどこへ行ってしまうのだろう
それこそ家族システムの破壊、文化の破壊である

日本がアメリカに占領され愚民化政策を押し付けられたように
日本に従属的な国を作るのが目的ならそれでいいだろう
しかし、本当に相手の国のことを考えるのなら
何を与えてよく、何を与えてはいけないのか
もう一度考える必要があると思う

モドル